ずいぶん更新していなかった。忙しかった・・・・・・考え事をする暇がなかった・・・・・・「いつこっちに来られるの?」・・・近しい人からそういう電話をもらったのは10月7日だったかな。この場合の「来られる」というのは可能の意味ではなく、尊敬・・・つまり敬語として使われている。「11月に入ったら行けるかも」と口から出任せを言った。そしてその言葉に縛られて、11月になったら会いに行かねば、という思いが一種の脅迫観念となって、私をなお一層の働き者とした。この仕事を片付けたら休もう。次の仕事に差し障るけれど、とにかく休もう。休むために働こう。
近しい人の病気が再発して、病院に通い出したのは8月だったか、9月だったか、はっきりとしないが、とにかくお見舞いに何か贈ろうと思い立った。前回は鶴を1千羽ほど近しい人に向けて飛ばしたが、また鶴では芸がない。そこで今回は星にした。ラッキスター。ラッキーセブンという言葉も聞くので、ならば777個の星に願いを託そうと思って、折り紙を用意して、寝る前に少しずつ作り出しのは、9月に入ってからのような気がする。これが意外と難しくて、777個の星の陰には200個以上の失敗作があった。
苦労の末、ようやく11月9日の夜に出来上がった。そうしたらコロナの第三波らしきものがやってきたというニュースが世間を騒がし始めた。777個の星を郵送しようかな、とも考えたが、「君が来ても俺は全然迷惑じゃないよ」という近しい人の一言で、777個の星を直接届けることにした。決行の日は13日の金曜日・・・・・・。それはともかく、最近近しい人は「俺」という言葉を使う。昔からそうだっただろうか? 以前は「僕」と言っていたような気もする。私は「俺」という言葉よりも「僕」の方が好きなのだけど、人の好みをとやかく言うのは好まないので、そのまま聞き流している。だが少々に耳に障る。がまん、がまん。
いつものごとくいい加減な待ち合わせだったが、近しい人と無事に11ヶ月ぶりの再会。薬の副作用で白血球が基準値を下回って、かなり危険な状態だったようだが、その割には元気だった。少し痩せたかな?
何の話をしただろうか? あまりに話をしすぎてすべてを覚えられない。コロナの話、人間関係の変化、コロナに対する過剰反応の是非、神との出会いの瞬間、マイスター・エックハルトとトマスの類似と相違、マイノとベラスケス・・・話はいつもように迷子になりどんどん逸れていくが、どれもみな面白い話題であった。
どこをどう迷子になった後だったか忘れたが、「姉はね」と近しい人が一番影響を受けているお姉さまの話になった。「姉はね、天使に祈るんだよ。あの人はポケットに小さな天使の像を、小さな袋に入れて持ち歩いているんだ。天使に祈るけれど、姉の思い通りにならないだろ、そうしたら、天使を袋から取り出して、逆さまにしてまた袋につっこむんだって。一種のお仕置きだね。で、思い通りになったら、天使を元に戻すんだって。天使は単なるメッセンジャーだから、そういうことをしても構わないんだって。」なるほど、いい話を聞いた。私もやってみようかな。
話をしながら、ヨットハーバーを散歩した。板張りの長いデッキを歩いていたら、私の靴からカタコトとかかとの音がすると呆れられた。ああ、何たること! 私のお気に入りのリーガルの靴は、このかかとの音が良いのだ!それを呆れるとは・・・・・・わかってないなぁ。
「ボロボロになりながらもこうやって生かしていただいているから、誰にも強制されたわけではないけど、体に悪いと思うことはやめているんだ。たとえば、これは美味しいけれど、食べると体に悪そうだ、と思ったら食べないよ。誰にも食べてはいけません、なんて言われないけど、俺は食べない。そんなことをしたら、神様に申し訳ないでしょ。」これはも迷子になった話のどこかで、近しい人が言った言葉だ。・・・・・・うまく言えないけれど、私の心にこの言葉が刺さった。痛く突き刺さるのではなく、忘れてはいけないと思って心に刻み込まれた、というべきだろうか。・・・・・・私などがお祈りする必要はないけれど、この人に神様のお恵みがより豊かにありますように・・・・・・こう祈らずにはいられなかった。
今年は新型コロナの所為でできなかったが、次の桜の頃に、またリーガルの靴音をBGMに、近しい人と散歩しながら、いろいろな話に桜に負けないくらい美しい花を咲かせたい。ペリパトス派のささやかな願いです。