霜月という名に反して、昨日の昼間は少し体を動かすと、うっすら汗がにじむような良いお天気であった。今日はまた例のごとく引きこもっているので、外の様子はわからない。窓から外を眺めると、昨日同様、良いお天気のようだ。
昨日は、珍しく日比谷まででかけた。休みの日は引きこもりと私の相場は決まっているのに、どういう風の吹き回しかというと、講演会があったのだ。一ヶ月と一週間前から楽しみにしていた。偶然講演会のチラシを見つけて、即座に聴講を申し込んだ。
講演者は、池内紀さん。本来なら敬意を表して「先生」と呼ぶべきであろうが、親しみを込めて、フルネームで池内紀さんと呼びたい。なぜフルネームで呼びたいか・・・習慣であろうか。ずいぶん昔、私がまだ小娘だった頃、知り合いに佐藤さんというおじいさんがいた。かつては独逸文学青年であった佐藤さんと、池内紀さんの書物について語り合うときにフルネールで呼んでいた。その習慣であろう。
というわけで、小娘時代からずっと池内紀さんのひそやかなファンであった。何がきっかけでファンになったのかは、もう忘れてしまったが、いわゆる「おっかけ」ではない。繰り返しになるが、ひそやかなファンなのである。ゆえに、池内紀さんの講演会を聴講するのも今回が2度目。
一度目はもうずいぶん前のことだ。兵庫県の近代美術館が王子公園の前から海の方へと引っ越して間もない頃だったと思う。そこでクリムト展をやっていて、その会期中に、池内紀さんの講演会が美術館の中の大ホールであった。確か講演会の1時間前に整理券を配っていたが、私はのんきにちょうど1時間前に整理券をもらいに行ったら、残僅少。わざわざ講演会を目当てに美術館に入ったのに、あやうく聴けずに泣いて帰らねばならないところであった。
整理券をもらったあと、館内をぶらぶらしていたら、係の人に案内されて講演会場になっているホールへと入っていく池内紀さんとすれ違った。思ったより背の高い人だな、というのが、そのときの印象であった。
あれから、どれほどの時間が流れただろうか。昨日もまた、講演会場に入る池内紀さんを偶然、見かけた。やはり、背の高い人だな、と思った。雲つくような大男というわけではなくて、私が勝手に創り上げたイメージと比較すると背が高いという意味である。
講演の途中で、鞄の中から本とめがねを取り出されたが、そのとき「鞄の中からものを取り出すとき、教師をやっていたことが思い出されて不愉快になる」とぼそっと冗談をおっしゃったが、そうだろうなぁ~、と妙に共感してしまった。
書物の再読というのがテーマであったが、再読というのは、物語や著者を再発見するだけではなく、初めてその書物を読んだときの、若かりし自分と再会するということでもある。その時の状景までもありありと思いだすことでもある。また再読することによって、初読のときに気づかなかった著者の真意に気づくこともある。そしてまた、いかに著者がその当時の社会背景に裏打ちされているかということにも気づく。たとえそれが時代小説であったも、著者の現在がそこにある。・・・・こういうようなとても真面目な内容の話であった。
真面目な内容であるにもかかわらず、池内紀さんのお人柄のおかげで、肩肘張ることのない、ゆる~い雰囲気の中で、拝聴することができた。とても心地よく、久しぶりに「楽しい!!」と思えるひとときであった。
講演会が終わると、とっとと帰るのが常であるにもかかわらず、昨日は池内紀さんのサイン会の列にまで並んでしまった。池内紀さんの書物にサインをしてもうらのだが、イラストも添えてくださった。ちょっと感激。6つの小さなイラストの中から描いてもらいたい絵をリクエストするのだが、私は、花のところに飛んできたミツバチの絵をリクエストした。描き終えてから、その絵を眺めて池内紀さんは、「ま、こんなもんか」と、声にはお出しにならなかったが、そういう顔をされた。少年のような表情とは、こういう顔のことだな、と思った。