メガネ違い

「眼鏡違い」という言葉がある。辞書をひくと、人などの良し悪しの判断を誤ること、というような説明がある。確かに眼鏡を間違うとよく見えなくて、間違うということがある。

11月3日文化の日に、ピアノの発表会があった。文化の日だからというのではなくて、偶然この日に決まったようだ。ちなみに、聴きに行ったのではなく、弾きに行ってきた。今年は、ちょっと背伸びして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ15番の終楽章を選んだ。You Tubeで、バレンボイムやブレンデルの演奏を見たり、聞いたりしていると錯覚に陥る。臨場しているという錯覚ならともかく、「私にも弾ける!」という錯覚だ。「けんきょ」の「け」の字もない、不遜なこの思いは、錯覚としか言いようがない。

練習を重ねるうちに、アシュケナージやケンプの演奏に限りなく近い出来になっているという、さらなる錯覚に囚われる。レッスンのときに、先生の前で、指が絡まりそうになりながら、モタモタ弾いているにも関わらず、家ではちゃんと弾けるのにどうしたことか、と首をひねり、現実を受け入れられないでいる。まぁ、錯覚がなければ、ピアノの発表会に出ようなどとは思わないだろう。

さて、発表会の当日。リハーサルで、緊張するとどうなるかというだいたいの症状をつかみ、いざ本番を迎える。冒頭の8小節を弾いたところで、「おぉ、調子がいいかも」とこれまた不遜な思い。しかし、そのすぐあとにふと気づいた。「眼鏡が違う!」そうなのだ! おばさんなので、暗譜は免除されて楽譜を見ながら演奏するのだが、ピアノ用の眼鏡(一般的には老眼鏡と呼ぶらしい)ではなく、普段かけている眼鏡のままであることに気づいた。普段の眼鏡だと、細かい音符がぼやけて、音の区別がつきにくくなる。指は勝手に動いているが、頭の中では、葛藤が起こっていた。まだ冒頭のところからこのまま演奏をやめて眼鏡を取り換えに戻ろうか、いやいやこのまま続けて弾くに決まっているだろう、そうは言っても見えないのだぞ・・・。30年ぶりに再開したピアノのレッスンだが、子どもの頃に刷り込まれた教えは、こういうときには揺るぎないものとなるらしい。「一度弾き始めたら、音を間違えても、止まったり引き直したりしてはいけません!」この絶対的な格言のもと、多少の傷を負いながら、何とか最後まで弾き終えた。

眼鏡が違うと、本当に何も見えなくなってしまう。が、これもまた実力のうち。自己責任というわけだ。幸い、録音も録画もない。ゆえに、記憶は美化され、新たな錯覚を引き起こし、次回の発表会には、ぜひあの曲を、いやいやこの曲の方がいいかな、と不遜な思いは上限を知らずに膨らんでいくのである。

2018-11-05 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : konekosan