久しぶりの青空

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台風のおかげで、ようやく夏らしい青空になった。熱中症の危険はあるけれど、これぞ夏!と思わせる青空が見られるのは、夏好きの私には嬉しいことだ。しかし、この風通しの悪い部屋では、扇風機を回しながらタイプしている今もうっすらと汗がにじんでくる。

それはともかく、青空の下、蝉の声が聞こえてくるが、蝉の声を聞くと思い出すのが『パイドロス』の一節だ。真夏のある晴れわたった日の日盛りの中、イリソス川のほとりで、ソクラテスは、それまでリュシアスのところで「恋」の談義に耳を傾けていたパイドロスに出会う。ソクラテスは、どのような話がリュシアスのところで為されたのか、ぜひとも教えて欲しいとパイドロスに頼む。こんなところで立ち話をするよりも、どこか涼しい日陰で腰をおろして話しましょう、というパイドロスの提案で、二人は、プラタナスの高い樹を目指して、イリソス川にそって歩き出す。そして、プラタナスの樹の下に辿り着くと、ソクラテスがこう言うのである。

「おおこれは、ヘラの女神の名にかけて、このいこいの場所のなんと美しいことよ! プラタナスはこんなにも鬱蒼と枝をひろげて亭亭とそびえ、またこの丈たかいアグノスの木の、濃い蔭のすばらしさ。しかも今を盛りのその花が、なんとこよなく心地よい香りをこの土地にみたしていることだろう。こちらでは泉が、世にもやさしい様子でプラタナスの下を水となって流れ、身にしみ透るその冷たさが、ひたした足に感じられるではないか。小さな神像や彫像が捧げられているところから察するに、ここはニュンフたちやアケロオスのいます神聖な土地とみえる。それにまた、ここを吹いているよい風はどうだ。なんとうれしい、気持ちのよいそよぎではないか。それが蝉たちのうた声にこだまして、夏らしく、するどく、ひびきわたっている。〔プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』岩波文庫、17頁〕」

私のセンセイは、この一節が好きだった。今は滅びた西方の小さな大学の校内にあったサピエンチアという名のついたすばらしく立派なタワーの、確か7階にセンセイの研究室があった。その窓から見おろすと、校庭の片隅に大きなプラタナスの木があって、その木陰を求めてベンチも一つ、二つあったような記憶がある。そして夏になるとその木から蝉の声が聞こえてくる。ある夏の昼下がり、窓辺からプラタナスを眺めながら、この一節を口ずさんでいたセンセイの姿が懐かしい。「私はあのプラタナスのあるあたりに名前をつけてね、ときどき散歩にいくんですよ。何と名付けたと思いますか。君にだけ教えてあげましょう。ボルケーゼ・・・」。イタリアにある公園の名前をセンセイは借りたのだ。ボルケーゼ・×××とそのときおっしゃったと思うが、ボルケーゼの後ろについた語を忘れた・・・いや、ボルケーゼの前に、ピッコロとか何とか、言葉が付いていたかもしれない。要は、小ボルケーゼとか偽ボルケーゼ、というような名前だったと思う。

「君にだけ教えてあげましょう」といいながら、そのすぐ後に出たセンセイのエッセイには、プラタナスのあたりをボルケーゼと名付けた、としっかり書いてあった。ゆえに、私が今こうして綴っていても、センセイは文句が言えないのだ。

 

 

 

2016-08-17 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : konekosan